悪の華と仁左衛門のひざ下―2018年4月大歌舞伎「絵本合法衢」感想
歌舞伎にドはまりしたての昨年12月、1月頃は昼の部と夜の部と両方行っていたけれど、3月、4月あたりからは「観劇にも体力が必要だ、、!」とダウン気味で、昼の部か夜の部か、どちらかを選んで観るようになった。
で、4月大歌舞伎は「片岡仁左衛門一世一代にて相勤め申し候」という言葉に惹かれまくり、夜の部の「絵本合法衢」を選択。「一世一代」という言葉、非常にかっこいい。
わたしも「一世一代」の大勝負、「一世一代」の選択、などしてみたいな、などと妄想を膨らませながら、いざ鑑賞。
よく晴れた日。
座席
三階西席(三等A席、6,000円)から。初、西席。いや~疲れた。歌舞伎って4時間くらいで、長いからさ、ずっと首ひねりながら同じ方向見てるのって、結構疲れるね。三幕目と大詰の間の休憩時間中「もうここで帰ってしまおうか」と血迷うくらいには体力奪われる。日頃の根性不足がこんなところに現れる。笑 それでも懲りずに、次回以降もし東席が空いてたらチャレンジしてみようかな~西席はもう嫌。東席なら花道見えるかな?
立ち回りシーンが多い
これは結構びっくりした。仁左衛門が悪役2役(大学之助と太平次)を演じるんだけど、二人ともとにかく人を斬りまくる。あまりの残虐っぷりに、「貴志祐介か?!」って思いながら見てたよ。派手なシーンだから、「芝居を観たぞ」という気持ちにはなれるかも。
イヤホンガイドで「ここまで突き抜けた悪役だと「悪の華」を感じ、応援したくなりますね」みたいなことをおっしゃっていた。「悪の華」という概念は分かるけど、残念ながら大学之助からも太平次からも「悪の華」を感じること、わたしはできなかった。
なんでだろうね。
大学之助と太平次に「切なさ」「悪役の悲哀」がないからかな?悪にならざるを得なかった悲しい過去、とか、責任、とかさ(単純にこの脚本でカットだけかもしれないけど)。
でも、よく中村文則の小説に出てくる「絶対的な悪」には「悪の華」を感じるな。大学之助と太平次はそこまで大それた悪人じゃなかったっていうことかな。でも幼児も斬ってるしな。十分悪だよね。
あ、ちょっと「中途半端な悪」過ぎたのかな。もっと謀略をめぐらして敵方をはめる、ずる賢い悪。もしくは、一切の謀略なしに先陣に立って切りまくる堂々とした悪。どっちつかずの消化不良感が残ったのかな。
それか、もう少しチャーミングさがあったほうがよかった、とか?チャーミングな「悪の華」なんてないか。逆に、憂鬱感をもうちょっと漂わせればよかったのかな。
う~ん、難しい。本当に悪役って難しいよね。その点、この前みた「リトルマーメイド」のおばさまは良い悪役だったな。あと「ライオンキング」のスカーとかね。わたしの脳みそだと、ディズニーみたいな分かりやすい悪役のほうがいいのかも。笑
ところで、ボードレールの詩集「悪の華」は1850年~60年代のもの。一方、「絵本合法衢」の初演は1810年らしい。もしも「絵本合法衢」初演当時から「悪の華」という宣伝文句を使っていたとしたら、相当センスいいね。
仁左衛門のひざ下
衣装から覗く仁左衛門のひざ下、とにかくセクシーだった。大き目の骨ばった足の甲から、きゅっと細いくるぶし、ぐぐっと引き締まったふくらはぎに、きれいな縦長の膝小僧。いいなあ、きれいだなあ。歌舞伎役者の方にとって、ひざ下って本当に大事だよね。いつか、ひざ下のみ写った写真を見ただけで「これは誰々!」って言えるくらいに歌舞伎ファンであり続けたいな。